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つっPの“似非(エセ)”俳優修業
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 「役者」になる気持ちが“1ミリ”もない私が、>何故“似非(エセ)役者”として舞台に立っているんだろう?しかも、今「役者」になるためのワークショップにまで首を突っ込んでしまっている・・・・そんな“自分”と向き合いながら、作り手或いは観客の求める「役者」に、果たしてなることができるのか。そんな私の人体実験・実地検証的記録を残しておこうと思う(笑)。
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“似非(エセ)”役者より、お願い・・・・

2018/07/16 01:22
 実は、“恥”を覚悟でぶっちゃけますが、
私(つっP)が自分のことを“似非(エセ)”役者と呼ぶ本当の理由

それは・・・・

(ノルマの有無に関わらず)チケットを売る(捌く)ことが何よりも
苦手、ということ(苦笑)
。チラシや案内を送ることはできますし、現に
やっているのですが、そこから先のあと“一押し”が・・・・
 
どうしても、“無理”にでも観ていただけるよう、という“気持ち”だけ
はある
のですが、相手の都合ばかりを気にし過ぎて・・・・来ていただける
のを待つだけ
、・・・・という・・・・その結果、“なしのつぶて”に終わってしまう
で、次に“望み”を繋ごうと・・・・“他力本願”の“悪循環”で、チケット回収、
“本番”を迎える
、という非常に不甲斐ない結果に終わるのです。

 もう一つ“白状”すれば、遅ればせながらこのブログを始めたのも、一人でも
多くの方に、この夏、名古屋で、こんな「ブレヒト」観たことがない!、「ブレヒト」
って、“ゲス”だけど、面白いし、考えさせられる
・・・・そう、興味を持っていただいて、
劇場に足を運んでいただきたい
・・・・という、“下心”見え見えの、“他力本願”
に他ならなかったのです。

 それでも、このブログを読んで、「ブレヒト」に“1ミリ”でも興味を持っていただいた方に、
是非とも、劇場へ足を運んで欲しい!観たら、“絶対”損はさせない!
それだけ、“面白い”し、“今”だからこそ観て、考えて欲しいのです。


 興味を持たれた方、更に一歩踏み込んで生の舞台を観たい方は、
以下の、予約フォームのページにお進みください。


【土本隆弘扱い 予約フォーム】

http://www.quartet-online.net/ticket/caucasus8?m=0igegii


まで。予約は、会場取り置き・当日精算でも構いません


“似非(エセ)”役者から心より、伏してお願い申し上げます


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“心やさしい”「非人間」と、「悪鬼」と・・・・

2018/07/11 10:39
【稽古場日誌より・・・・】
 先週出席した稽古日程は以下の通り。
7月6日 前日(5日)のステージングの返し・・・・1場
7月7日 夕方(18:30頃)からステージング稽古・・・・8場まで
※7月4日は、抜歯のためお休み
 7月5日と7日(12:30〜)は、名大図書館のシフトのため欠席。


〜ここでは、7日のステージング稽古を見ていこう〜

 前半は、ヒロイン「グルシェ「」中心の物語であるため、稽古も「グルシェ」の場面には当然ながら
力が入る。
 それもそのはず、前半のキーワードは、“善(意)”

 この“本来”ならば「人間」として当たり前の“感情”或いは“行為”が、

ここでは「恐ろしい」もの(だからこそ、歌手たちによって「“善”への誘惑」と歌われるのだ!)、

“芝居”の中の“現実”にはあり得ない、云わば“例外”であり、

この“例外”的な行為故に「グルシェ」は、


後に裁判で“実母”「ナテラ」(領主夫人)から訴えられるのである。


 しかし、

 何故彼女が「“善”への誘惑」に負け、子ども(「ミヘル」)を育てることになったのか、


ここに至る心の迷い(“葛藤”)を見せておく必要がある。

 
 そして、この“葛藤”を通して、「グルシェ」の“母性”への目覚めを見ると共に、

後半での、ブレない“信念”・“愛情”を持った“したたかな”(“生命力”溢れる)「母親」


としての「グルシェ」の“成長”に繋がる・・・・

というのが、今回の一つのテーマであろう。
 
 
 稽古を見ていて、ふと心に引っかかった部分がある。

それは、4場でたまたま通りかかった農家に「ミヘル」を置き去りにしていく場面での、
歌手と「グルシェ」の問答歌である。
 
 まず、歌手が問う、

なぜ、嬉しいのか?娘よ」と。
 
 これに対する「グルシェ」の返歌は、

「可愛いあの子から、“自由”になったから」。
 

 また、歌手が問う、

なぜ、悲しいのか?娘よ」
 

 「グルシェ」の答え、

 「ひとりで“自由”に、町に帰れるから」

 

 ここで、何かが引っかかる・・・・これって、変。


 これって、何か“逆”じゃね!?



〜稽古場で、ふと感じたことを、“今”考えてみると・・・・〜

 この場面に至るまで置き去りにされた「ミヘル」を拾って育ててきたばかりに

ロクな目に遭っていない、云わば“貧乏籤”を引かされてばかりの「グルシェ」にとって、


「ミヘル」は“厄介”な“お荷物”でしかない。

 

 そんな“お荷物”なんかさっさと打っ棄って“恋人”(「シモン」)の元へ行こう


・・・・あ〜あ、“清清(せいせい)”すらぁ!

となる筈で、


ひとりで“自由”に、町に帰れるから嬉しい


となるのが、より自然の筈である。
 
 
 
 勿論「可愛いあの子から、“自由”になれるから」も「嬉しい」筈で、

であるならば、何も「悲しい」ことなどない筈である。


にも関わらず、何故「悲しい」と歌われるのか?
 

 この時「グルシェ」は彼女の中で初めて生まれた“葛藤”を感じるのだ。

これまでは、“恋人”に再び会うことだけしか眼中になかった

たとえ、「ミヘル」が棄てられたままであっても、自分が見付けなければ、



“かわいそう”と“同情”することはあっても、

そこで止まって、そこから“先”へ進むことなど思いもしなかった筈である。
 

 というよりも、「戦争」に明け暮れる「グルジア」の“現実”に於いては、

これこそが“当たり前”の生き延びるための“処世術”

(或いは、これを“原則”と呼んでもいいだろう)であり、

それに反する行為をする者(つまり“例外”)は、まずあり得ない

もしいれば“異端”或いは“悪人”のレッテルを貼られるに違いない。


そんな“世界”に生きている「グルシェ」が、

「ミヘル」と“出会い”、拾って育てる・・・・

そんな“あり得ない”ことが“現実”に起こったことで、彼女は気付くのである。


 たとえ、「ミヘル」を棄てることで自分が“自由”になれたとしても、


 この子には「生きる」ための“自由”がない。


 この子が“自由”に「生きる」ためには、

この子を守り、育てるもの=“母親”の存在が必要なのだ!

 
 自分の“自由”よりも、

 「生きる」ことさえ覚束ない子どもの“自由”を選んだ時、

彼女の中に生まれた“母性”(という、“人間らしさ”)が、

いつしか彼女に「生き(延び)る」力=“生命力”を与え、

彼女自身を成長させていく
のである。
 

 だからこそ、「ミヘル」を棄てて、「ひとりで“自由”に、町に帰れる」ことが

悲しい」と、“素直”に歌うことができるのではないか。


 しかし、“現実”には、「グルシェ」と「ミヘル」を巡る“世界”は、

“自分”のことに精一杯で、彼女らに対しては冷たい

 「優しい兄」である筈の「ラヴレンティ」でさえ、“現実”には、

“世間体”(と妻「アニコ」)の目を気にしてばかりの、哀しい“婿養子”でしかないのだから!

※“好人物”の長見氏には、申し訳ないが・・・・

 
 これこそ、“心やさしい”「非人間」(野村修/註1)であり、


前半はまさにこうした「非人間」(或いは「ひとでなし」)の見本市


といった感すらある(苦笑)。

 
 そして同時にこの作品を執筆していた頃(1944年)のブレヒトから見た時、

自分が“亡命者”という“卑怯”(“現実”のナチス・ドイツから逃げた=“現実逃避”)な立場

にいたからこそ、より“現実”が見え、切実に感じていたのではないか。
 

  たとえ、「戦争」さえなければ“善人”でも、

「国家」のためにの筈が、いつしか「ナチス」(或いは「ヒトラー」)に協力・加担してしまう


“心やさしい”「非人間」の存在こそが、

“独裁者”を助長させてしまう、という本当の“現実”を・・・・

 
 ※しかも、“性質”の悪いことに、こうした人たちの大部分が、

かつて自分が犯した“罪”を

「ナチス」或いは「ヒトラー」(これを他の“独裁”国家に置き換えることもできよう)の“狂気”

に“安易”に責任転嫁をして”不都合”な“現実”から目を背け続けたのである。
 
 

 それに対して、ブレヒトはアメリカ亡命中にこんな詩を書いている。


 
 
「悪鬼の面」(全文/野村修 訳)  (註2)
 
 ぼくは壁に日本の木彫りの面をかけている
 金泥をぬられた悪鬼の面を。
 ぼくは見、ぼくは共感する。
 ひたいの、ふくれあがった静脈が語るのは
 悪人であろうとする渾身の努力。

 

 

  かつて『三文オペラ』で「人間が人間らしく生きるためには」という問いに対して、


 「人間らしさを捨てること


と答えたブレヒトの“確信犯”ぶりは、相変わらずどころか、より痛烈である。


 “亡命者”である“卑怯”な立場ブレずに貫く(演じる)ことで、

“現実”と向き合い、批判するブレヒトの“したたかさ”と、


 「悪人であろうと渾身の努力」

をする「悪鬼の面」のそれ(“現実”という「壁」に必死にしがみついて生きる

と重なると共に、

その“したたかさ”或いは“生命力”が、後半の主人公の「アツダク」
や、“母親”へと成長した「グルシェ」にも乗り移り、宿っているのではないか、とさえ
感じるのは私だけだろうか?

 ブレヒトは、「グルシェ」や「アツダク」を通して、“私たち”に“選択”を迫る

“保身”のために、

何の違和感も覚えず「非人間」(“ひとでなし”)となるのか、

それとも、たとえ「悪鬼」とよばれても

自分の“人間らしさ”をブレずに貫くことができるのか?


 “私たち”が生きている、“いま”、“この国”或いは“世界”で、

 「人間」そのものさえが“偏狭”になり小さくなりつつある“現実”の中で、

“私たち”一人ひとりの「生き方」が問われている。

 
 それこそが、『コーカサスの白墨の輪』の“本質”ではなかろうか。


〜再び、稽古場に戻ろう。〜

 稽古は、5場の直前の「グルシェ」の“苦難”の旅の演出が続いている。

彼女が“本当”に闘うべき相手は、険しい山や谷などの「自然」ではなく

 “善人”の仮面を被った“エゴイスト”(ひとでなし)

 つまり「人間」(観客も含めた“私たち”全て!)である

 彼女には、“善(意)”、言い換えるならば“人間らしさ”しか武器はない
 
 しかも、それは“芝居”の中の“現実”では、“悪”とさえ呼ばれよう。

しかし、この“母性”という“人間らしさ”こそ、

「ミヘル」を守る上で“最強”にして“最高”の“武器”なのだ!


 その一方で、“母性”(という“人間らしさ”)「ナテラ」には欠落しているという、

否定しようのない“事実”も存在するのだが・・・・


(これ以上は、“ネタバレ”になるが)

“確信犯”ブレヒトでさえ敢えて書かなかった“真実”を、


私たちは、今回の舞台を通して見て、“共感”するに違いない。


 
 本当に「母親」が必要なのは、“誰”かということに・・・・!


 
 そして、“いま”、稽古場では「グルシェ」と共に

「鈴来かえり」という役者もまた“成長”している。


それを見ることが、何よりも楽しい


オイオイ、お前も「役者」だろうが!・・・・という“ツッコミ”を受けそう(笑)だが、


 筆者は、あくまでも“似非(エセ)”「役者」である。・・・・悪しからず!


 
 6場では、「ユスプ」の家での「グルシェ」の“婚礼”が

“死んだ”筈の)「ユスプ」の乱入で“大混乱”(正しく、“カオス”・・・・笑)

のうちに
終わりを告げる場面での稽古。
 
 とにかく、「村人」連や歌手たちが


“右往左往”し、歌い、また“右往左往”のうちに捌ける、という正直“しんどい”(苦笑)場面。


 こんなのが、一日2公演あった日にゃぁ・・・・・もう、死んでしまう!?  



註1:野村修著『ブレヒトの世界』 1988年 お茶の水書房刊
 ※同書 V/「都市住民のための読本」(284頁)より。

註2:全文は『ベルトルト・ブレヒトの仕事 3 / ブレヒトの詩』
(責任編集・訳:野村修/共訳:長谷川四郎  2007年新装新版 河出書房新社刊)より。
 
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はじめまして

2018/06/30 15:22
★まずはご挨拶をどうぞ。
 演劇を中心に、自分の目で見て(観て)・耳で聞き(聴き)・そして考えることが好きで、ごくたまに
(“魔がさして”)舞台に立つこともありますが、「役者」になろうとする気持ちは“1ミリ”たりとて
ない・・・・そんな、“変”な人間です(笑)!普段は大学図書館で時間外スタッフとして、配架と整理
に追われる日々を送っております(司書資格あり)。


★ブログを書こうと思ったきっかけは?
 以前、別のプロバイダーでブログを書いていたのですが(主に観劇の記録)、色々事情があって書けなくなり、
プロバイダー移転で、ブログそのものが“消滅”してしまったので、もう一度、“ゼロ”から”の“リスタート”をしよう
と思ったから。丁度、今まさにタイトル通りの(?)“似非”「役者」をしているので・・・・

★どんなブログにしたいですか?
 もともと、「役者」になろうと考えたことなど“全く”ない私が、演出家さんや作り手の皆さん、或いは「お客様」
が求める「役者」になれるのか・・・・という、謂わば“人体実験”的な検証の記録にでもなればいいかな?
・・・・取り敢えずは(苦笑)

★どんな方たちに、あなたのブログを読んでもらいたいですか?
 勿論、(「時間」と」「お金」があれば、“無理”してでも)観劇レポも書いていきたいですし、こんな芝居の見方や
楽しみ方・考え方があるんだな程度に受け止めていただければ、一本の芝居を通して色々考える素材を提供して、作り手・観客双方が考えていただければ・・・・

★最後に一言!
 “似非”「役者」は、果たして“本物”の「役者」(「俳優」)になることができるのか・・・・どうか長い目で見てやって
くださいませ。
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“似非(エセ)役者”と、ブレヒトの“嘘”

2018/06/30 15:20
【稽古場日誌より・・・・】

 この日(6月28日/於:アクテノン@稲葉地公園)より、稽古(俳優館8月公演『コーカサスの白墨の輪』)
は、ほりみか先生によるステージング演出が始まる。

 実際の舞台(ちくさ座@吹上)を想定して、特に場面転換での歌(いわゆる、ブレヒト劇の「ソング」)と絡めた、舞台上での動き・振りの指導である。この日は10・11場の歌絡みの場面の動きと、12場(クライマックスの「白墨の輪」の裁判場面)最後の、民衆たちのダンスの振り付けが行われた。
 
 私は、役柄上ダンスの“輪”には加われないので、大リハーサル室(アクテノン5階)の奥から眺めているだけだが、実際“見よう見まね”でコッソリやってみるが

・・・・足の運び(ちょっとバレエ的なもの)がぁぁぁぁぁぁ・・・・

む、無理でござる(苦笑)。

その一方で、よく見ると、あれれ!?

“この場”にはいないはずの「奥方様」やら「弁護士2」まで、“当たり前”のように一緒になって踊っているではないか(笑)!

いくら、この日欠席者が多くて(計10人)、人手が足らないからと言っても・・・・

何とも“カオス”である。
 
「弁護士2」役の長見氏曰く、「本来、俺、出る必要ないんだよね・・・・」と苦笑しているくらいである。


  “カオス”と言えば、この日稽古の合間に“舞台写真”(というより、イメージ写真或いは、“ヤラセ”!?)を撮ることになった。
 お題は二つ。まず、「白墨の輪」の、「奥方様(ナテラ)」とヒロイン「グルシェ」が、子ども「ミヘル」を引き合う
場面。何しろ、「グルシェ」と「ミヘル」は“代役”を立てているので、
どこか“和気藹々”としているのは、まあ仕方ないとして・・・・

 問題は次の11場から居酒屋での移動裁判の場面。

 この場面で山賊「イラクリ」を演ずる私、どういう訳か「アツダク」(上田定行さん)の斜め後ろに立って、高笑いをあげてくれとなかさん(上演台本と演出)からの注文。

少々戸惑いながらも、
「・・・・じゃぁ、笑ってもよろしいですか?

 (こんな山賊役、マジであり得ねえ〜笑

と確認を取って、それきっかけで、

は〜〜〜〜っはははははははははははは」。

周りもつられて大爆笑・・・・

え、これって、こんな場面でしたっけ

※なお、この写真は後日、朝日新聞(名古屋市内版?)に今回の公演の紹介・告知記事と共に掲載される
そうです。ちなみに私は、子どもを引き合う場面では物凄い形相で睨みつけ(笑)、そして上田さんの後ろで
高笑いをしております。
暇つぶしに変なおじさん探しは如何でしょう?



 閑話休題。改めてこの11場で私が演じる「イラクリ」について考えてみたい。

 登場から開口一番、「放浪の隠者で。閣下」と名乗るのだが、

そもそも、「隠者」は

人里離れた森や山の奥でひっそりと暮らしている(或る意味、“世捨て人”)からこそ、“神秘性”がある

訳で、それが「放浪」つまり、

人間世界・“娑婆”をほっつき
歩いていること自体、あり得ない


(※
Die Bezeichnung » wandernder Eremit « ist widersprüchlich.
「放浪の隠者」という呼び名は矛盾している)。

 つまり、観客からは

明らかに“嘘”だとバレてしまっていることになる。

 しかし、ブレヒトは

敢えて「イラクリ」に対して「放浪の隠者」或いは「聖ヌスット」(Sankt/heilige Banditus)

という“嘘”を堂々と吐き通させて、“不信心”な「大地主」たちを懲らしめさせる。

しかも、「アツダク」さえそれに乗っかって

彼らに「有罪」&罰金刑(一人当て500ピアスター×2)という

“出鱈目”な判決を下すのである!
 

 これ以上は、所謂“ネタバレ”(もう、既にバレてしまっているが)になるので止めるが、

“嘘”と“出鱈目”の“茶番劇”を通してブレヒトが見せたかったのは、

「革命」ではないか、ということ。

 自分たち自身で考えて行動を起こす、

どんな“些細”なことでもいい

「芝居」という“嘘”を通して、

今生きている“現実”を見つめ直す(“批判的”に)
・・・・

それこそが、

“現実”の「革命」には“挫折”したものの、「演劇」という形での「革命」を“現実”に“実現”させようとした

「革命家」ブレヒトの、“したたかさ”ではないか?

 
 今、私の台本には赤ペンでこう記してある、

(“嘘”を)堂々と吐き通す!」と。


 ・・・・しかし、新たな問題が発生した。

 11場の最後、居酒屋からいつしかいなくなるはずだった「イラクリ」が、

「アツダク」たちと酒盛りに加わり、一転して“謀反人”「カツベキ」の晒し首が通りかかるのを見るや否や

民衆と共に逃げ出す

という形に変更になってしまったのだ!


 やっぱり、“似非(エセ)役者”の私は「イラクリ」(これは、ギリシア神話の「ヘラクレス」から由来)というよりは、

“へこにす”に戻って真っ先に逃げ出すのが性に合っているのではないか、と思う・・・・


呵々



※ズーアカンプ(Suhrkamp)のペーパーバック版(BasisBibliothek 基礎文庫/2017年第10版)
『Bertolt Brecht Der kaukasische Kreidekreis  Text und Kommentar』
(『ベルトルト・ブレヒト コーカサスの白墨の輪 〜テクストと注釈〜』)より引用。
なお、引用個所は、「隠者」の注釈部分(187頁)。
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